「会」と「能」と「可以」――それぞれの意味と日本語のセンス
- 2015/03/30
- 09:51
前回は「会」と「能」と「可以」の意味合いの違いを解説しました。この「会」と「能」と「可以」にはそれぞれ複数の訳が存在します。
「会」 ①~だろう②(習得していて)できる
「能」 ①(能力があって)できる②(主に「不能」で)してはならない
「可以」 ①(許されていて)できる②してもよい
・・・などなど。
これらの複数の訳を訳し分ける基準はやはり第一に、「日本語としてのロジックの筋が通っているかどうか」でしょう。このことについては、前回の記事で、「会」の例文をあげて説明しました。ただ実は、一番見分けにくいのは「会」であり、ほかは見分けるのはさほど難しくはないと私は考えています。例えば夏立言大陸委員会主任委員によるM503航空路の記事の中に、こういう文があります。
雖然不是非常滿意,但可以接受
この場合の「可以」は上記のどちらの訳を当てたほうがいいのか考えて見ましょう。「さほど満足しているわけではないが、受け入れることができる」と訳せるかどうか。
上記の訳は間違えではないと思います。しかし日本語において、あまり「私は~できる」「あなたは~できる」とは言わないことを考えると、ちょっとずれてて「外国語を日本語に訳した」感が出てしまっていますよね。それもそのはず、英語に置き換えてみるならば、この文章は「I can accept」となります。そして、「可以」には「(自分としては100%本意ではないが)できる」というニュアンスもあることを忘れてはなりません。
これらのことを勘案するならば、私ならば「さほど満足しているわけではないが、受け入れてもよい」が、日本語訳としてよりベストだと考えます。
このように常に日本語として自然かどうかを検証してベストな訳語を当てはめていく必要があります。
もうひとつ例を挙げましょう。
習近平国家主席がボアオフォーラム開幕式で行った演説でこんな言葉がありました。
看中国经济不能只看增长率
これを「中国経済を見る際、成長率のみを見ることはできない」と訳してしまうと、ちょっと違和感を覚えます。国の指導者がボアオフォーラムで訴えかけている場面ということを勘案するならば、「中国経済を見る際、成長率のみを見ることはべきではない」とするのが正しいのではないでしょうか。
このように「会」と「能」と「可以」で、「できる」と訳すのか、それとも「できる」以外の訳を当てるのかを考えてきましたが、日本語文としてしっくりくるのかどうかは、主語に注目して考察することが重要であると私は考えています。
つまり、日本語において・・
・「私は~できる」「あなたは~できる」とはあまり言わない(全く言わないとは言いません。英語や中国語では結構でてきますが・・)
・「私は(私たちは)~してはならない」とは言わない(つまり「我」の主語で「不能」とでてきたのならば高確率で「できない」の訳であるということ)
・「私は~だろう」もそれほど多くはない(自分の未来について不確定である場面は少ないと言う理由から)。
・・・などなど。今思いつくだけあげて見ましたがまだあるかもしれません。
原文をそのまま日本語文に訳すという観点で言えばこれらの要素を無視しても「間違い」ではありません。しかしより日本語に近い文章を追求するならばやはり、「日本語のセンス」を気にすべきでしょう。これを磨くには日常の日本語文に対する意識を高く持つことが必要であると考えています。
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「会」 ①~だろう②(習得していて)できる
「能」 ①(能力があって)できる②(主に「不能」で)してはならない
「可以」 ①(許されていて)できる②してもよい
・・・などなど。
これらの複数の訳を訳し分ける基準はやはり第一に、「日本語としてのロジックの筋が通っているかどうか」でしょう。このことについては、前回の記事で、「会」の例文をあげて説明しました。ただ実は、一番見分けにくいのは「会」であり、ほかは見分けるのはさほど難しくはないと私は考えています。例えば夏立言大陸委員会主任委員によるM503航空路の記事の中に、こういう文があります。
雖然不是非常滿意,但可以接受
この場合の「可以」は上記のどちらの訳を当てたほうがいいのか考えて見ましょう。「さほど満足しているわけではないが、受け入れることができる」と訳せるかどうか。
上記の訳は間違えではないと思います。しかし日本語において、あまり「私は~できる」「あなたは~できる」とは言わないことを考えると、ちょっとずれてて「外国語を日本語に訳した」感が出てしまっていますよね。それもそのはず、英語に置き換えてみるならば、この文章は「I can accept」となります。そして、「可以」には「(自分としては100%本意ではないが)できる」というニュアンスもあることを忘れてはなりません。
これらのことを勘案するならば、私ならば「さほど満足しているわけではないが、受け入れてもよい」が、日本語訳としてよりベストだと考えます。
このように常に日本語として自然かどうかを検証してベストな訳語を当てはめていく必要があります。
もうひとつ例を挙げましょう。
習近平国家主席がボアオフォーラム開幕式で行った演説でこんな言葉がありました。
看中国经济不能只看增长率
これを「中国経済を見る際、成長率のみを見ることはできない」と訳してしまうと、ちょっと違和感を覚えます。国の指導者がボアオフォーラムで訴えかけている場面ということを勘案するならば、「中国経済を見る際、成長率のみを見ることはべきではない」とするのが正しいのではないでしょうか。
このように「会」と「能」と「可以」で、「できる」と訳すのか、それとも「できる」以外の訳を当てるのかを考えてきましたが、日本語文としてしっくりくるのかどうかは、主語に注目して考察することが重要であると私は考えています。
つまり、日本語において・・
・「私は~できる」「あなたは~できる」とはあまり言わない(全く言わないとは言いません。英語や中国語では結構でてきますが・・)
・「私は(私たちは)~してはならない」とは言わない(つまり「我」の主語で「不能」とでてきたのならば高確率で「できない」の訳であるということ)
・「私は~だろう」もそれほど多くはない(自分の未来について不確定である場面は少ないと言う理由から)。
・・・などなど。今思いつくだけあげて見ましたがまだあるかもしれません。
原文をそのまま日本語文に訳すという観点で言えばこれらの要素を無視しても「間違い」ではありません。しかしより日本語に近い文章を追求するならばやはり、「日本語のセンス」を気にすべきでしょう。これを磨くには日常の日本語文に対する意識を高く持つことが必要であると考えています。
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